神様のブドウ畑NO.3聖霊のバプテスマを儀式で受ける必要があるか

 

§クリスチャンになった後に、さらに別に、後で、儀式などによって、「聖霊のバプテスマ」を受ける必要がありますか?

☞いいえ、ありません。イエスを信じると同時に、すべての人は、聖霊のバプテスマを受け、すでにイエス・キリストの教会の一員となっています。

§聖霊のバプテスマとは、キリストを信じた者がキリストと一体化し、キリストの教会に加えられることを言います。これは、信じた時に受ける一度限りのものです。後で「聖霊のバプテスマを受けよう」と言って、新しく起きる霊的体験=異言と言うしるしを伴った何か特別な力を頂くという霊的神秘体験の事を言うのではありません。
「ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです」使徒1:5
 「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなた方は、皆、キリストをその身に着けたのです」ガラテヤ3:27

§これは、教会時代(使徒2章以降)になって与えられたもので、すべての信者は、聖霊のバプテスマを、キリストをメシアと信じた瞬間に受けています
「そこでペテロは彼らに答えた。『悔い改めなさいなさい。そしてそれぞれ罪を赦して頂くためにイエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさいそうすれば』賜物として聖霊を受けるでしょう』」使徒2:38
 「なぜなら私達は皆、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷人も自由人も、一つの体となるように、一つの御霊によって、バプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲むものとされたからです。」Ⅰコリント12:13
 「体は一つ、御霊は一つです。…主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです」エペソ4:4~5

§使徒書2章の出来事から、聖霊のバプテスマは始まり、賜物として異言を受けました。この出来事は離散したユダヤ人に起こりました。使徒書10章では、異邦人も救われ、聖霊のバプテスマを受ける事が分かりました。この二つで使徒達に権威がある事が理解されたのです。

§上記2例に対して、サマリア人とヨハネの弟子の場合の聖霊のバプテスマは、通常とは違っていました。

§使徒書8章の、ユダヤ人に対抗して独自の律法と神殿を持っていたサマリア人の場合。サマリア人が聖霊の内住もバプテスマも受けていなかったのは、ペテロの伝道で初めてユダヤ人の使徒に権威があることがわかるためです。また、それは、ピリポの伝道で聖霊のバプテスマを受けてサマリア人が独自の教会をつくることになるのを神が防ぐためだったからです。

§また、使徒書19章の、初期の洗礼者ヨハネの悔い改めのバプテスマを受け、その後エペソに帰ったユダヤ人の場合。彼らは、パリサイ派からは離れていましたが、まだ洗礼者ヨハネの弟子のままで、イエスをメシアと信じていたわけではなく、聖霊のバプテスマを知っていませんでした。彼らはパウロの説教を聞いて、イエスへの信仰告白をし、パウロが按手し、聖霊のバプテスマを受けました。これにより、洗礼者ヨハネの洗礼とは関係なく、人は信仰によってのみ救われることが明確になり、洗礼者ヨハネの遺志を継ぐ教会を建てることはなくなりました。また、パウロの説教の権威性が理解され、これ以降、「父、御子、聖霊の御名」による洗礼が正統的なものになりました。

§ですので、使徒8章、19章をもって、イエスを信じた後に、さらに聖霊によるバプテスマを受ける必要があるという教えは、文脈的にも、間違っていることが分かります。正しくは、使徒書2章と10章の出来事で、ユダヤ人にも異邦人も信じた瞬間に聖霊のバプテスマがされている=キリストの教会に一体化されているという事です。

§聖霊のバプテスマを、さらなる祝福と考えたり、聖霊のバプテスマを受けていない、あるいは、異言を聖霊の力を特別に頂いたという「しるし」と考え、異言を話せない他の信徒を差別化することや、聖霊の満たしと混同して、聖霊のバプテスマによって、特別なパワーを頂いたと思うのは、聖書的ではありません。