神様の葡萄畑NO40 再び、聖霊のバプテスマについて

 

『「霊性の神学」とは何か』という読書会をしておりますが、その中で、聖霊のバプテスマについての再確認が必要となりましたので、私なりに、まとめてみました。

 

基本的には、信じたと同時に瞬間的に、新生し、聖霊のバプテスマを受けます。死んでいた霊がキリストによって復活するという事です。(ロマ8:9)

そもそも、聖霊のバプテスマとは、個人的覚醒のための感情的体験、瞬間的な癒し、変容を期待するものではなく、キリストと一体化し、普遍的教会に所属するという事です。(エペ2:21~22)

 

順番は、新生、内住(聖霊のバプテスマ)、証印(Ⅱコリ1:22)、満たし(油注ぎ)です

 

一番問題となるのは、新生(エペ4:24)したのに聖化が進まず、ベイビークリスチャンのまま、あるいはもっと以前の新生児クリスチャン―義認だけでとどまっている人と、そもそも、キリストを口だけで信じたと言って、新生していない地域教会の偽クリスチャンの違いをどのようにして、見分けるかです。(マタイ13:30)

長く付き合っていると、聖霊の実によってわかりますが、瞬間的に見分けができるのは識別の賜物がある人によってです。が、これも細心の注意―特に荒みのある状態の表面的状態と新生児・ベイビークリスチャンの見分け―が必要です。

私達にできることは、新生していないクリスチャンを裁く事ではなく、判断し、伝道する事だけです。もちろん、新生児クリスチャンも救われます(ピリピ1:6)が、キリストの御座による審判(Ⅱコリ5:10)―と言っても、裁きの事ではなく―で、多くの聖霊の実をいただいたクリスチャンとは、あるいは自分にまかされたタラントを生きたクリスチャンとは、天国での報いに違いがあると言うことです。

 

信じた瞬間に聖霊が宿られるので、聖霊のバプテスマを受けなさいという命令は聖書にはなく、あるのは「聖霊に満たされなさい」(エペ5:18)という命令です。

 

では、ここで問題となるのはでは、信じるとはどういうことかです。

信じるとは、頭でちらっと考えて、そういうこともあると理解して分かったという事ではなく、また、永遠の命が欲しいのでとりあえず信じておくという事でもなく、

自分の意思の決断によって、キリストの人格と御業に完全に信頼して、より頼み、信じている内容―私の罪の為にキリストは死なれ、葬られ、復活してくださったこと―を、しっかりとした確信を持っていると宣言できることです。

たとえて言えば、椅子にちょこっと腰を置くのではなく、どっしりと腰を据えるように座る

事です。

信じる前の悔い改めは反省や後悔ですが、信じた後の悔い改めがメタノイアです。

 

また、もう一つの問題は、信仰を感情体験の面として強く意識しすぎる事です。福音派の信仰は、聖書が土台で、感情が土台ではありせん。しかし、かといって、頭だけで理論的に信じるというのは「霊性の神学」を実際に生きていることにはなりません。

誠実に歩むなら、愛・平安・喜び・力強さ・柔軟性・忍耐力等が増して行き(ガラ5:22)、内在される聖霊様をより感情的にも体験できるようになります。決して、感じていなくても、ただ、信じていればよいというものではありません。

 

信じた瞬間に<聖霊の内在があった事>を劇的感情として体験する方もおられるでしょう。しるしとして異言をいただくこともあるでしょう。しかし、それがすべてではありません。聖霊のバプテスマを劇的感情として体験することがなかった人もいます。ので、劇的感情や変化がなかったからと言って聖霊のバプテスマをうけていないとは言えません。もし、感情的体験としてあるはず、というなら信仰より感情が上になりますので、これは優先順位が間違っています。

多くの人は信じた瞬間に聖霊のバプテスマを受けて徐々に感情体験としてわかってくると思います。これが聖霊の実がなるという聖化です。

 

なお、聖霊のバプテスマの特殊な例は使徒書8章・10章・19章です