神様の葡萄畑NO.43牧会者として相談を受けるとは?―自戒を込めて

牧師がキリスト者の相談を受ける時に必要な態度は何であろうかを簡単に述べてみる。

まず、課題となるのが、相談者に対して、精神医学的診断を用いることは、牧師としての専門外に当たらないであろうか。あるいはどちらの資格も持つ牧会者に対しての相談は、相談者がどちらを選択、期待しての相談であるかについて―心理的精神医学的アプローチが先か、神学的牧会的土台を優先させるのか―慎重な聞き取りをしなければならない。

神学的牧会的土台を優先させる場合、聖書的人間論(ヨハネ3章6節)に合致していると思うが、そしてそれは牧会者として期待されていることを意味するが、心理的精神医学的アプローチを優先する場合、心理的精神医学的レベルまでの改善に留まることを覚えておかなければならない。もしも、相談者がそれで満足ならば、心理的精神医学的レベルの資格に対する相談だった事になる。その場合、もっと深い段階にある開放や癒しを示さなくてもよかったのか、果たしてそれで牧師としての役割をしたことになるのかはなはだ疑問になるところである。―未信者の相談を受ける場合は、伝道の機会を逸することになったかもしれない―

 

二番目に、傾聴してゆけば改善が見られるという期待は、聖書の人間論(創世記3章)に反するのではないか?ロジャーズの対象としていたのはある一定の人間的な能力ある対象者ではなかったか。聖書的人間論によると、人間は複雑な在り方をしていて、傾聴によって改善される場合は、そもそも相談者が自分の霊魂を十分に認知して、言語化できる能力が備わっている場合ではないか。人は変化できるが、そもそも、相談者は本当に、罪と戦って血を流す覚悟があるのか(へブル12章4節)、ただの自己弁護に賛同してほしいだけなのかを吟味する必要がある。もちろん、言語化できない部分を霊的質問によって引き出してゆくのが、その役割ではあるが、霊的同伴をする場合、被同伴者がある程度のレベルにある場合に、深い霊的対話となりうると考える。そのことによって、むしろ、同伴者が成長できるのである。

 

三番目に、社会的資源の一員として―例えばチャプレンとして、或いは、精神的肉体的治療を必要とする信徒の場合の所属協会の指導者として参加する場合、他のチームの人々からの好意で、なんとなく居場所を占めている場合、他のチーム参加者との違いはどこにあるのか、ただ、人間的善良性があると思われる資質だけに頼ることは、牧会者としての役割を果たしていることになるのかこれも又疑問になりうるところである。

 

さて、相談者は牧師に何を求めて相談をしに来るのか

まず、具体的解決がなされなくとも、特別な共同体の一員であること、自分の罪が注意喚起され、赦しを請い、「このような自分であってもよいか」に対する確認をもらい、慰めと祝福を与えられる事によって、生きる勇気と希望が出てくることを無意識のうちに羨望しているのではないか。この意味で、取るに足らないと思われるような相談者の動機を軽くあしらうことはよくない。宗教的助言を求めていることに対して、心理学や社会的問題として応対し、暫定的に精神医学的あるいはPSW的な回答を提示し、神学的な回答を提示しないでおくことは、期待を裏切ることになる。

牧師が暫定的に精神医学的診断をするという事は、自分の専門分野よりも、他の専門分野が人間理解に先立つことに立場を譲ってしまうことになっている。このことについて牧会者は重々、自戒しなければならない。牧会者が牧会者としての任務を全うしない限り、心理学や精神医学と、実践神学の間に埋もれてしまい、相談者により一層の困難を負わせてしまうことになってしまう。

 

では牧会者としてどのような態度で専門職として、キリスト信者の相談者に接することが望ましいのであろうか。

一番に必要なことは、相談内容を見分ける、識別する事である。識別は聖霊の賜物である。牧会者には色々の賜物が与えられているが、識別の賜物なくして相談を受けることは難しいと思われる。識別の結果、神学的知識が必要になる。それは、果たして聖霊のバプテスマを受けているのか、義認に与っているのか、聖化の道のどこを歩んでいるのか、根源的罪は何か、そのパターンは何か、どのように、罪の告白をするのかそしてどのように赦しを受け取るのか、そのうえでみ言葉を開示することは必要になってくる。

 

私は心療内科心理相談室やうつ病社会復帰センター、作業所に勤めていた経験から、長い間、本末転倒の診断をしてきたと思う。そのことをここに悔い改め、牧会者として相談を受けるという立場にはっきりと方向転換をしてゆく(申命記1章6節)。