神様の葡萄畑NO72 再び「女性牧師は非聖書的か論争について」

私は昨年、「女性牧師は非聖書的か」について、拙著の中で女性牧師は聖書的であると言及しました。反対の立場も賛成の立場も、Ⅰコリント11章(確かにコリントの教会は秩序を失っていたました)、エペソ5章、Ⅰテモテ2章、3章を中心に、又、封建的家父長制度をも含めて、今なお、喧々諤々の教条主義的神学論争が続いており、その中で、多くの女性リーダー達は傷ついています。

しかし、今回はそういった理論的解釈ではなくて、ヘブライ語をとおして、女性の召し出しについて、4月5日の泉キリスト栄光教会の「キングダムセミナー」において、この問題を学びましたので、ここに取り上げたいと思います。

このセミナーでは、創世記1章から4章までを基礎として学んでいました。神はアダムを造られ、あらゆる生き物に名前を付ける(支配権をゆだねる)ように言われ、アダムはすべての生き物に名前を付けましたが、「ふさわしい助け手」は見つからず、神はアダムの骨から女を造られました。

「ふさわしい助け手」と訳してあるヘブライ語は エゼル ケネグドーです。エゼルは「助け手」ですが、翻訳の難しさがあったのは、ケネグドーです。これは本来、「ふさわしい」という意味ではなく「彼と向き合う者としての」という意味です。つまり、女は男と向き合う者として造られたのです。この言葉は詩篇121編2節で「私の助けはどこから来るのか」の部分にも使われています。

アダムは眠りから覚めて女を見た時「これこそ私の骨の骨、肉の肉」と呼びました。違う形をしたもう一人の自分だと認識したわけです。一つから造られたけれども、男には男の、女には女の神に似せて造られた互いに欠くことのできない存在、正面から向き合う存在という啓示を受け取ったのです。神にあって、男は女を見て、女は男を見て互いに栄光を現わしたのです。神の栄光のゆえに二人は光まぶしく、裸であっても恥ずかしくなかったのです。

Ⅰコリント11章の3節は「男がキリストの内にあって立ち上がる時、キリストはその男の中に存在しました。女が解放され、完全に自分の内にある輝きを解き放つ時、男はその女の中に完成するのです。従って女が栄光を現わさなければ、私たちは神の国を享受していないのです」(浅原修一著「キングダムセミナー」P128より抜粋)とを解説されています。

男と女ではなく、キリスト花婿と子羊の花嫁としての対の組み合わせとして考えれば、なおわかりやすいでしょう。キリストは花婿で、私達教会は男も女も含めてキリストの花嫁です。花嫁である教会の女性たちが傷つき呻く状態は、神の栄光を現わせていません。神の啓示を受け取り、霊の耳で聞き、霊の目で見て、女性たちを、暗闇から光へと解放しましょう。

神に栄光!人に平安

導いて下さった浅原先生、楠堂先生、分かち合ってくださった霊的姉妹の皆様に感謝。