神様の葡萄畑NO88 転移的宗教的信仰と恵みによる信仰―ヨハネ3章1~8

私たちは通常、親子関係を通してできた人への信頼・不信という目を通して信仰へと入ってゆきます。これを転移的信仰、宗教的信仰、自我のなせる信仰等と呼びます。これは私たちが力の限り努力して下から上に到達しようとする信仰です。

信頼感が強い人は神を肯定的に見て、天に国籍があることを比較的簡単に信じる事ができ、主にある気楽さで生きて行けますが、不信感が強い人は、頭では神を信じていても、なかなか、神の御国に自分がいると言う実体験を持つ事が難しいです。

それなので、どうしても行為による義に陥りがちで、神様の前に良い子であろうとして、頑張ってしまうのです。一生懸命、聖書を学んだり、信仰的行いをしようとしますが、完全にはできませんから、燃え尽きてしまうのです。

このような時、ニコデモのように「人は老いていながら、どうやって生まれ変わることができるのですか、もう一度、母の胎に入って生まれる事ができるでしょう」と言いたくなるのです。

ここでイエス様は「まことに、まことに、あなたに言ます。人は水と御霊によって生まれなければ神の国に入ることはできません」と言われました。水と霊によって生まれると言うのはバプテストによって私がキリストの十字架と共に葬り去られたことです。転移的信仰では自我がまだ生きてもがいている状態です。恵みによる信仰はすでに自我が死んでいる状態です。大きな違いです。

安息に入りましょう。「神の良い子である」と言う自我は死にました。「良い子でやれる」という中にある傲慢を悔改める時に、親子関係で得られなかった基本的信頼関係が回復します。復活の主と出会います。これは永遠で、転移的信仰に戻りません。十字架の死と復活の主との交わりは、癒しをもたらします。